対話の害

『対話の害』宇佐美 寛 (著), 池田久美子 (著)

書評
執筆責任者:Takuma Kogawa
道徳や哲学、倫理の講義では、一方向の情報伝達だけではなく対話という双方向の方法がよく用いられる。ここでいう対話とは、教師は学習者が哲学的問題を考えるための題材を提供し、学習者の意見に対して教師が補足する、という形式だろう。理系学部出身の私からすると、科目の性質が対話となじまないものが多いため経験がなく、対話とは哲学や倫理といったいわゆる文系の学問に特有なのかもしれないと思う。本書は、日本でもよく取り上げられた、マイケル・サンデルの「対話形式の教育」の問題点を検討したものである。本文のほとんどがサンデル批判に費やされているが、サンデルを批判することが主目的ではなく、この「対話形式の教育」を是として日本でも導入しようという動きに警戒するものであることをここで強調しておく。私は、哲学や倫理は教えられて学習するものではないと考えている。特定の状況について哲学や倫理を考えるとき、自分にとっての答えを導けばよく、それを教師に添削してもらう必要はない。教師の考えやイデオロギーを学習者に強要、洗脳するおそれのある「対話形式の教育」には慎重であるべきだ。サンデルの「正義」に関する講義で有名なものに、トロッコ問題がある。自分は橋の上におり、暴走列車の先に複数人の作業員がいる。自分の横にいる太った人を突き落として列車にぶつければ列車の暴走は止まるという非現実的な状況を仮定したとき、あなたは太った人を突き落とすかどうか、という問いである。サンデルの思考にはないと思われるが、ここではあなたが太った人や作業員の命運を握っているのだが、人数の差はあれ少なくとも自分の命がそこに関与しない、という点は重要である。自分が橋から飛び降りて列車の暴走を止める、という選択肢はサンデルの問いでは完全に除外されている。教師が学習者の答え方に制限をかけるような「対話形式の教育」は本当に「正義」なのだろうか?
(793文字)

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基礎教養部

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