方丈記

『方丈記』鴨長明(著)

書評
執筆責任者:にしむらもとい

「古典」とは現代とかけ離れたものだ。必然、物事を相対化できるゆとりがなければ真髄を味わうことは難しい。しかし、少なくとも『方丈記』は読み方に注意すれば若者でもそれなりには読める。『方丈記』の著者、鴨長明は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の禰宜(ねぎ)の次男として生まれ、禰宜になることを望み、遂にゆかりの社において禰宜へ就任する機会を得るもその夢は破れ、その後世俗を離れて閑居生活へ移行した。よく知られたプロフィールである。他に『無名抄』『発心集』といった歌論や説話集なども残しているが、それらと比して、『方丈記』には斜めから世の中を見下ろす屈折した視点が強く含まれている。「無常を悟る」とは、エリートの持ち得る感覚ではない。その意味でも、真っ直ぐに未来を目指す若者に『方丈記』は刺さらないだろう。しかし、別に刺さる必要はない。800年もの時を隔てて届いたこの短い随筆を今更読む動機。過去の風俗を知りたいからか。それもあるかもしれない。しかし、「古典」を読む最大の動機は「いま」を知ることだ。「昔」を知ることではない。一定の素養がなければ意味をなさないことは認めるが、読み方によって「古典」は「いま」を相対化する絶好のフィルターとなる。『方丈記』は、かなり正確な災害の記録として客観的に読めることも知られているが、基本的には、才能に溢れながら人生に敗れた男の屈折した感情が主観的に見て取れることをこそおすすめポイントとしたい。『方丈記』の無常観は、一点の曇りもない悟りの境地ではなく、泥臭い葛藤の果てなのである。そもそも、この随筆は一体誰に向けて書かれたのか。方丈の庵での暮らしを誰かに紹介したかったのか。いや、『方丈記』こそが鴨長明の終の棲家そのものなのではないか。確かにここに鴨長明は「生きて」いる。だからこそ、いまなお読者の年齢や立場に応じて、この『方丈記』は常に違う表情を見せてくれる。
(796文字)

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ジェイラボ 所長

基礎教養部 部長

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