『じぶん・この不思議な存在』鷲田清一(著)
書評
執筆責任者:イヤープラグさざなみ
〈じぶん〉って一体何だろうと考えたことのない人はいないだろう。この問の背景にあるものは何だろうか。「胃の存在はふだんは意識しない。その存在は故障してはじめて意識する。」同様に、〈じぶん〉が衰弱している場合に限って〈じぶん〉そのものへの問が生まれてくるのである。この〈わたし〉の衰弱を考察するところが本書の特徴である。著者の鷲田清一は哲学者であり、長いこと大学で 哲学の講義を担当していた。氏の著書には、そうした中で得られた学生との交流談がふんだんに盛り込まれている。自分が何なのかを問うとき、自分の内部に目を向け、自分に固有の何かを探し出そうとする。しかし自分だけが持っている何かが見つかることなどまずない。では、どうするか。自分に「規則正しさ」を課したり、自分でないものを排除したりする例が本書では紹介されている。前者では、自分の行動に明確な規則を与え、それに従うことで自分の存在にも明確な輪郭を与えることを試みる。後者は自分の内と外の区分けを明確にすることによって自分の輪郭をはっきりさせるやり方である。2つのやり方に共通している点は、それが〈じぶん〉というストーリーを紡ぎ出すための一つのメソッドであるということだと鷲田は語る。このストーリーこそがアイデンティティである。ひとつの物語にのめり込み過ぎると、物語が破綻・終了したときに拠り所がなくなってしまう。しかし物語には恣意性がある。このとは救いである。語り方を変えたり、物語に違う解釈を与えたりすることによって、同じ人生であっても全く違う見方ができるようになるからだ。〈じぶん〉の意味を考える際、自分の中 ではなく他者に目を向けるとどうだろうか。本書の後半では、自分を「他者の他者」として捉える、すなわち自他は相互補完的であるという論が展開される。終始一貫している主張は、〈わたし〉とは何かという問いに一般解は存在し得ないということだ。
(798文字)
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