基礎教養部へようこそ

部長

はじめまして。基礎教養部、略して『基礎教』の部長を兼任しておりますジェイラボ所長の西村です。

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『キソキョー』では、学ぶ範囲を限定せず、広く教養を深めるための草の根の部活動を行なっています。具体的には、部員による読書経験の共有が主な活動内容になります。読書以外の記事も上がるかもしれませんが、メインコンテンツは部員の読書記事となります。もちろん、私自身が書く記事もあります。読書記事は紹介を目的とした800字の書評が核となります。その書評に対して、さらにオリジナルな評論が部員のnoteアカウントにて記事化され、その記事に対してリンクが貼られます。その二つのレイヤーでの記事がメインとなります。追加のオリジナル評論については、書評書いた人間があげるのが基本になっていますが、他の部員や私が追加で評論をつけることもあり、そうした広がりがより記事に深みを増してゆくと思います。

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少し、私の話もしておきましょうか。私は、YouTube(J LAB ch1)およびジェイラボ公式サイトにて教養系コンテンツだけでなく大学受験にまつわる情報発信も並行してやっております。しかし、本音では大学受験の技術などをいまさら大真面目に研究する気はありません。そんなものはとっくにハッキング済みですし、実際、既にハッキングされてしまっている大学受験の仕組みは変わるべきだとすら強く感じているからです。従来型のままの学習塾や予備校は、なくなってしかるべきと強く感じています。大衆には『ドラゴン桜』のようなコンテンツが好まれ定期的に流行るようですが、未来のない現行の大学受験システムのハッキング法などを身につけることは、それ自体としてはもはや大した教養にはならないとも感じています。しかし、そこで躓く若者もまだまだとても多く、もったいないと感じるのもまた事実であり、だったらせめて一緒に受験を乗り越えるサポートくらいはできるならやっておこう、という趣旨をジェイラボの元々の活動に含めました。

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しかし、これからテーマにしたいことは、大学受験を突破した後あるいは大学受験とは離れた場所にあります。大学受験的な偏った枠組みにとらわれない知性の在り方を草の根から見直したい、この部の運営にはそうした想いが込められています。ジェイラボは有志が集うオンラインコミュニティです。そのメンバーの力で、皆さんに「身の丈の教養」を伝えられたらと考えております。

部長

私は常々言っているのですが、日本の大学入試はいたずらに難しくなりすぎています。範囲限定時間制限付きで特殊な難問を解く能力を試すより、たとえば数学では、基礎理論の理解をしっかり問う試験を基本にすべきだと考えています。その上で更に数学科などでは部分的に難問を課しても良いとは思いますが、いまのたとえば東大の入試では、英語数学国語理科社会全ての科目を、多少は皮算用で捨てる場合もあるにせよ、そこそこ満遍なく触る必要があります。しかし、一律に全科目「その完成度」を求めるのは、結局情報処理能力の高さをそのまま「個人の能力」のパッケージとして評価することにつながり、私はあまり良いことと感じておりません。人間の能力は何もそうしたデータベース的な情報処理能力だけではないからです。その一方で、受験に必要な能力、技能は情報処理能力だけです。たとえば、仮にですが、もしも「どれだけ数学が好きか」といったモチベーションの程度を測ることが何らかの技術により可能になったなら、いますぐ難しいペーパーテストはやめてモチベーション順に入学者を選抜するべきだと思います。ただ現実には、モチベーションを「客観的」に測定する技術などというものが存在しませんので、その理屈は通りません。

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受験で培われるであろう(情報処理)能力は、もちろん、概ね皆さんの人生に役立つ能力だと思います。しかし、それは万能ではありません。頭の良さとは何か。それを一生「考え続けられる」人が、きっと頭の良い人です。実際のところは、どうでしょう。周りを見渡してみてください。「小賢しい小手先のライフハックを頭の良さだと感じている人」が世の中の大半であろうと思います。しかし、私は「ただ知的好奇心のみに突き動かされて真っ直ぐ行動する人」こそが頭の良い人ではないかと感じています。

部長

「目の前の目標を達成するためにPDCAサイクルを回す」などといった邪な思考は、およそ「教養的」ではありません。最近では「OODAループ」などという更によくわからないメソッドの名前を耳にすることもあります。いずれにせよ、そういう文脈における「解決すべき目の前の目標」とは、人間が作り上げた「人工的な社会システムの中での解」であり、基本的にはほぼ「一意に定まる解」です。したがって、それは単なる情報処理に過ぎず、そこから新しさが生まれることはまずないと断言できます。新しさとは、ある種の「野蛮さ」です。枠組みにとらわれないとは、「洗練からの逸脱」です。ですから、皆さんには、興味の対象を役に立つとか立たないとかという狭い枠組みに限定することなく、広く学びの意識を持って欲しいと感じております。本を読む意義ひとつを取っても、それを単に知識を増やすというクイズ王のような動機にとどめず、本の内容を題材として周辺分野へと考えを押し広げ深めることへこそ動機をシフトして欲しいと、強く願っております。

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そして、最後に強く念を押したいことがあります。

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知性というものは、現代において、かなり複雑化、高度化、専門化しているように見えていますが、本質的には、「もっと素朴に捉え直せるものなのではないか」ということです。人が何かを学ぶのに、基本的には年齢も境遇も関係ありませんし、アカデミックな機関に所属していなければ絶対に学べないということもありません。ただし、アカデミックな立場にいない人による開き直っての合理化もいけません。アカデミックな研究機関に所属した方が深い専門性を効率よく身につけられる可能性が高いことは、間違いありません。その視点はちゃんと担保したいという想いは私にもあり、それゆえジェイラボのメンバーには一定レベルのアカデミック層を招き入れるよう心がけてもおります。それでも、なお、私は非アカデミックな学びの可能性を広げることには、一定の意味があると感じています。天は人の上にも下にも人を作らなかったと福澤先生はおっしゃられましたが、それは裏を返せば学問によって上下が作られることの肯定でもあります。私は、そもそも人の上とか下とかそんな感覚、概念を持つこと自体に、大きな違和感を感じています。

部長

人として素朴に生きること。その意義を見直したい。もし皆さんが、ほんの少しでも、いまのこの世の中に面倒臭さ、堅苦しさ、息苦しさ、生き辛さを感じているとしたら、それはきっと当たり前のことなのだと思います。社会制度の高度化に伴ってズレてしまった我々の感覚を、少しだけアジャストすべきタイミングが来ているのではないでしょうか。

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平凡に生きる我々にとって、教養とは何なのでしょうか。ただただ知識を増やせば、教養が身に付くのでしょうか。教養とは決してひと握りの人間にしか取り扱えない高度な魔術などではないはずです。一般人の手に当たり前の教養を取り戻したい。

部長

積み上げる教養ではなく掘り下げる教養を。

部長

もちろん、私の考えを一方的に押し付けるつもりはありません。そうですね、皆さんも私たちと「一緒に」知性の在り方を見直してみませんか?